日本最大級の貧乏くじを引いた男:鈴木貫太郎

FROM:長谷

 

このメルマガが届く頃には選挙の結果が出ている頃でしょう。

 

ところで、

第二次世界大戦の時の

敗戦時の総理大臣を知っていますか?

 

恐らく、即答できた方はかなり少ないんじゃないでしょうか。

 

そう、

彼こそが「日本で最大級の貧乏くじを引いた男」

鈴木貫太郎です。

 

そして、

鈴木貫太郎は私が最も敬愛する総理大臣でもあります。

 

鈴木貫太郎が総理大臣になったのは

1945年4月です。

 

そう、終戦の4カ月前です。

 

つまり敗色濃厚で、

勝てるわけがない戦争の最終局面での意思決定。

 

端的に言うと、「敗戦処理」のみ、を任せられた総理大臣です。

 

そして鈴木は、敗戦処理を終えて(終戦)程なくして、

内閣の総辞職を発表し、故郷に戻りました。

 

その鈴木貫太郎の生き様を詳細に伝えるノンフィクション、

「聖断」をこの度読み終わりましたので、皆さんにシェア出来ればと思います。

 

戦争を「終わらせる」事が、

当時どれ程大変だったか、皆さんはご存じですか?

 

鈴木貫太郎の生き様

 

鈴木貫太郎は1868年生まれ。大政奉還からわずか数か月後に産まれました。

その後日本海軍に入り、日清・日露戦争に従軍します。

 

そこで大きな戦功を挙げ、連合艦隊司令長官(海軍現場トップ)に抜擢され、

1925年には海軍軍令部長(海軍トップ)まで昇りつめます。

 

当時は明治維新の名残もあり、

軍の要職や待遇は、薩長に融通が利くようなムードだったそうです。

 

関東で育った鈴木貫太郎がトップになったのは、

薩長の後ろ盾が無い中での異例の昇進だったようです。

 

そんな中、海軍トップとして昭和天皇との交流を深めます。

そして1929年には昭和天皇からの強い希望もあり、侍従長に就き、一線を退きます。

 

そこで鈴木貫太郎のキャリアは終わる予定でした。

 

しかし突然、引退したはずの鈴木貫太郎は

16年後の1945年4月に総理大臣に担ぎ上げられます。

 

しかも、その時の鈴木貫太郎の年齢は77歳。今でも歴代、史上最高齢です。

 

なぜ鈴木貫太郎が担ぎ上げられたのか?

 

色々な要素が絡み合うが、言葉を選ばずに言うと、

「責任者がみんな逃げた」に尽きます。

 

敗戦濃厚な時に、その国のトップになんて、誰もなりたく無いのです。

 

例えば、4か月後に潰れるとわかっている会社の社長をやれ、と言われたら、だいたいの人は逃げますよね。

しかも、連合軍に占領されれば「処刑される」可能性も大きい時代です。

 

鈴木貫太郎は、

政治には一切関わらず、

開戦の意思決定にも参加していない。

 

戦争中にも、国家の意思決定に関わっていない。

 

それにも関わらず、

恐らく当時の日本では「一族の恥」とさえ罵られそうな

「終戦を決定させ、実行する」だけをする為に、総理大臣になりました。

 

しかも「終戦させる」のは簡単では無く、

「終戦工作」が露見すれば、軍部から暗殺されるかもしれない。

 

実際に鈴木貫太郎は、極秘で進められていた玉音放送の直前、

8/14夜から未明にかけて、クーデターを企てた陸軍に襲撃されます。

 

まっこと、日本最大級の貧乏くじを引いた男としか言いようがありません。

 

終戦させる事が、当時の日本のムードの中、どれ程大変だったかを思うと、

鈴木貫太郎がした仕事は、語り継がれ続けるべきだと思います。

 

もし、鈴木貫太郎がいなかったら、

原爆が落とされた後も、本土決戦を決行し、占領後の国土分割も含めて(日本は本州・北海道・四国・九州沖縄で連合国にバラバラに統治される)、

とんでも無い事になっていたんだと思います。

 

「聖断」おススメです。

 

そんな鈴木貫太郎に興味が出たら、

「聖断」を読まれることを勧めます。

 

近代日本史にアレルギーがある方は読まない方が良いと思いますが・・・

少しでも、ご先祖様の苦労や生き様を知りたい、と思うのであれば、是非手に取ってみて下さい。

(けっこう長いです笑)

 

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